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人口・個人主義・住宅〜2

2042

きのうの続きであります。
西欧発祥の「個人主義・資本主義」が世界の
それまでの伝統的な価値観に対して、
まったく違う価値観をもたらし、
日本では、対米戦争の敗戦という結果、戦後以降、
猛烈な勢いで、雪崩のようにこの価値観が社会を席巻した。
そしていま、まだそのプロセスにあるのか、
あるいは文化の受容先であるアメリカ・西欧をすら超えて
まったく人類未到のような「家・家族」意識、価値観領域に
ひょっとして、わたしたち日本社会は
突入しているのかも知れないと思ったりもしています。
日本という社会は、過去何回も海外の価値観を受け入れてきたのでしょう。
しかし、戦後のこの異文化の導入は、こうした変動をもはるかに上回り、
まさに圧倒的なスケールと質で
わたしたちの社会を揺さぶったのだと思います。
だから、伝統的な「家族・家」という、もっともセンシティブであるべき
生活文化の根幹部分でも、この大変革が巻き起こったのだと思います。
でもそのこと自体は、世界中で巻き起こったことでもあって、
ひとり日本社会だけが経験していることでもない。

個人主義が徹底して貫徹された結果、
「家族」というよりも、「個人」という存在に断片化されていった
そのように振れた住環境の基本単位に対して、
今後どのようなアタッチが必要であるのか、変革の方向が問われている。
この変化はちょうどわたしが、ひとり暮らしをしていた40年以上前の
学生時代のことをも想起させてくれる。
当時は「家族」の暮らしが社会の基本であって、単身者は暮らしにくかった。
基本的な生活維持基盤はスーパーや商店街だった。
ひるがえって現代、そこには生活維持基盤としてコンビニの存在がある。
問題は、こういう変化の結果の現状に対して、
どのような良き未来形があり得るのか、だと思います。
そういった地道な実践と、問題点を解決する方法を
探っていく努力がきっと必要だと言うことです。
そのときに、方向探索の基本指針は、
たぶん現実には、より合理的な経済妥当性の方向が重要で
そのように変化していくのが自明であるでしょう。

しかしなにより、ひとは結局どのように暮らすのが幸せであるのか、
ということであってほしいとも願う次第です。
伝統的な「家・家族」というマユから、
もうちょっと違う「マユ」は、ないのだろうか?
わが家は、いま、巣立ちつつあるふたりの子どもたちの単身世帯と、
わたしたち夫婦の世帯の3つに分かれています。
そういう家族の絆に、LINEが面白いインフラを提供してくれています。
スーパーからコンビニに置き換わった変化の先には、
なにか、そういう変化が生まれ出てくるのかも知れないなどと、
最近、心理コミュニケーションのためのスタンプのあれこれを探しながら、
ふと妄想したりもしています(笑)。
みなさん、いかがお考えでしょうか?

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