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都市集住遺構

1862

人間の居住環境ということを見ていて
だんだん、年を取るにつれて
こういった過去の先人の暮らし方のありように惹き付けられるようになります。
当然ですが、住宅という最小単位でのことばかりではなく、
いわば集住のことについて、興味が深くなってきます。
人間の生存の本性として
「寄り集まって住む」ということは、歴史的にどのようであったのか、
そんなことへの興味が深くなってきます。

写真は、ことし訪れた「一乗谷遺跡」の風景。
「都市の遺跡」というのは、日本ではそれとして見ることは
たいへん少ない。
たぶん、世界的にもそうなんだろうと思います。
いちばんの「史跡」になりそうなのは、
人々が現にそこで暮らしている現状の都市であることは蓋然性が高い。
いまわたしたちが暮らしているその土地の深くに多くの痕跡があるだろうけれど、
多くの場合には、それは無視されて痕跡は破壊されていくだろう。
そういうなかで、日本ではこの一乗谷遺跡と、
瀬戸内海の草戸千軒遺跡が明瞭な中世の遺跡として発掘されている。
確かに古代の三内丸山なども都市的集住を見せてくれるのですが、
なんといっても、現代に連なってくる「商業」の根源が
これらの遺跡からは発掘されてくる。
草戸千軒は、まさしく商業を基盤とした中世集落だし、
この一乗谷遺跡は、朝倉氏という戦国大名がなにゆえに栄えたのか
その経済的側面を証し立てている史跡と言える。
そういう意味で、資本主義的な発展と言うことが
類推的に俯瞰できる「史跡」というように言えるのではないかと思っています。
草戸千軒の場合には、手形の記録が発掘されたりもしている。
そして一乗谷遺跡では、唐人街の存在も確認されているそうで、
人口の大集積地・京都に近い国際貿易港が存在して
その交易拠点としてこの一乗谷が経済的な結節点だったとされている。
だから、織田信長は、この経済的大動脈を制圧したかった。
交易が最大の都市を成立させる条件だったのだろうと思う次第です。

資本主義と都市の発展とは、双子のようにして
人類は歴史過程で作りだしてきたに相違ない。
そういう都市環境の中で、ひとびとの暮らしようはあった。
しかし、その要因基盤を少し離れて、
だんだんに、集まって暮らすということ自体の「快適性」も発展したに違いない。
たぶん、まだ無自覚なこうした部分が、
現代では、巨大化してきているのだ、
そんなふうに見ている次第。
いわば「都市の居住快適性」自体の把握、計算が面白そうだと思っています。
さてどんなものだろうかなぁ・・・。

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