本文へジャンプ

武士と禅 永平寺 3

1756

歴史に興味を持ち続けているわたしですが、
日本史を習っていて、いつも持ち続けていた疑問が
武士が政権を握って、ほぼ同時期に禅宗が導入されていったこと。
武士の発生と禅の興隆の2つのことには、
どんな内在性共有性があったのか、ということです。
鎌倉に政権ができて、日本が本格的な2重政権状況になり、
承久の変を経て、武家政権の優位性が確立した。
それとほぼ時期を同じくして、建長寺という年号を寺号とする禅宗寺院が
鎌倉に創建され、国家鎮護仏教として禅が導入された。
それは、当時中国大陸で最新の宗教として隆盛していたから
というような単純なことであるのか、
仏教は、奈良時代の大寺院たち、平安時代の比叡山と高野山、
といった天皇・貴族階級のためのものからダウンサイズして
武権にとって、より都合のいい教義を備えた禅がもてはやされたものなのか、
たぶん、そういったタイミングとかすべてを含んで禅が興隆したのでしょうが、
そんなことを永平寺見学をしながら、解明のよすがを求めていた次第。

結論から言うと
そんな大きなテーマは、浅学の一市井の門前の小僧の身には持ちがたく、
あえなく帰路に着くのみでありました(笑)。
まぁ当たり前であります。
武士という存在の出自にはいろいろな考え方があるようです。
が、一般的には地方の開墾地主が自らの権益を守るために
武装し、同時に中央政権側の認証を得たいという動機に駆られて
より政治力の強い源氏・平氏という武門を担ぎ上げていった、
というのが、多くの見方と言えるでしょう。
間違いはないと思います。
最近では、平将門の乱というのが中央政権貴族にとって未曾有の恐慌だったようで、
それを鎮圧した家系が、源満仲と平貞盛であり、
この両家が、清和源氏、桓武平氏であったことから、
地方の武家が祭り上げるのに貴族社会からの認証も得やすかった、という説があります。
で、頼朝という革命的な策略家が関東に武権を樹立した。
禅というのは、個人の内面世界的な安寧をもとめる部分があって、
このようなリアリズムに身を置く武士たちにとって
殺し合いの現場的な精神性の部分で
リアリティがあったのではないかと思っています。
「葉隠」に、殺し合いの時に極度の集中感から「周囲が暗くなる」という
描写があったのを記憶しています。
たぶん、相手だけが見えて周囲がまったく見えなくなる状態になるのでしょう。
そう極限的ではなかったけれど、類似した体験は身にも覚えがあります。
そしてそういう局面に立ったときに、どのように自由に体を動かすか
というような武芸者としての実践的な行動哲学が語られている。
そういった武士にとって不可欠な、「明鏡止水」というような心理描写は
それまでの仏教に比較して、格段に実践的だと認定されたのではないか。
そんなふうに考え続けています。

でもまぁ、なかなか禅問答のように
答は一発では出てこないものなのでしょうね、きっと。

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.