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時間尺度の大転換

きのうはわが社の2階の公開スペースで
「近自然学講演」を中心としたイベントが行われました。
スイスに在住される研究者・山脇正俊さんをお迎えしてのもの。
建築家の宮島豊さんのプロデュースによるイベントです。
講演会後、よもやまの懇談会に突入いたしまして、
活発に論議が交わされておりました。
大震災とエネルギー問題が中心的なテーマでしたが、
その論議の中で気付いてきたこと。

わたしたちは、歴史時間はホモサピエンスとしては4〜5百万年なのだそうですが、
認識できうる日本列島社会での営為の堆積でも
まぁ、縄文の三内丸山の5000年くらいということになる。
通常的な時間認識から言えば、現代では戦後の60数年というのが一般的。
そういった時間感覚の中で、古いとか新しいとか、
すすんでいるだの、遅れているだの、言い合っている。
しかし、今回の震災を経て、この歴史時間の認識が
大きくパラダイムシフトしてきている。
1000年に1度の大地震や大津波が現に起こり、
そして気の遠くなるような原子力の時間尺度、万年単位のそれまで
現実に直面することになった。
しかし、一方で経済は常に単年度決算がどうしたこうした、
あるいは国会の判断も含めて、政治はあくまでも1年単位の予算執行になっている。
世界の時間経済単位も、1年間あるいは、四半期ごとというのが
震災後も継続している考え方。
構想も、基本的には短期的な1年間単位のことでの
整合性を担保することが基本的に求められる。
どんなに状況が厳しくとも、単年度決算での考えに即して行かなければならない。
超短期の「成果」への強迫観念が、社会全体の閉塞心理を加速させる。
すべてが短いサイクルでの成功を、超目先的に追求しなければならない。
それはいい。
しかしそれで、本当に骨太な社会の骨格形成ができるのか?
どうもいまの時代の行き詰まりは、このことが大きな問題点ではないのか。
1000年とか、万の年単位で考えなければならないことについて、
単年度で道筋を見通すことなど可能なのか?
マスメディアのヒステリックな些細なことへの攻撃姿勢を見るに付け、
今の社会に、この危機を本当に乗り越える方策が
短期間に創造されてくるとは到底考えがたい、と思う。
もっと、腰を据えた論議をしなければならないのではないか。
そんな思いが日増しに強まってきます。

<写真は宮城県亘理荒浜地区にて>

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