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震災後の骨太な論議の無さ

いま、震災に関連する仕事を進めているのですが、
今回の震災は、これまでの日本の歴史の中でも
かなり、日本という社会が衰退していると言うことを見せつけていると
そんな思いが強くしてきた次第です。

危機にこそ、ひとびとを奮い立たせるような
そういった「国民的盛り上がり」が必要とされると思うのですが、
本当にいまの社会、ひとの悪口や、足のひっぱりっこは
実に執念深くやるけれど、
建設的な、骨太な、芯の通った意見というのが、
そういう発言をする人間というのが、本当に払底している社会だと
衝撃と言うよりも、鈍く辛く、痛みがない痛みのように
社会全体が、そういう希望や明確な指針というモノを
放棄し続けて、ひたすら目先の価値観だけの「人材」しか、
作ってこなかったように思う。
被災地の人たちの魂に触れるような、そういう復興精神が見えてこない。
未来に向かって、苦しくても一歩前に出ようという
そういう精神性が、指導的な立場のだれからも発信されてこない。
あるいはそう感じるのは、わたしが歳を取ってしまっているからなのだろうか。

復興に当たって、
明確に国家目標が定まってこないのは、なぜなのか。
どうしてこんな大災害なのに、国家安全保障会議のような
そういう根底的な論議を回避してきたのか?
「復興構想会議」っていうものが立ち上げられて
論議はしていたということになっているが、
その論議の模様なり、どうしてもっと一般にオープンにしていかないのか、
どうも半年以上経っているけれど、
この国は、本当に「弱体化」しているとしか思えない。

こういうことの起因は、さて何に由来しているのだろうか?
たとえて言えば、江戸時代に繰り返し行われた
幕政改革がさしたる効果を得られないまま、
延々と、権力機構だけが生き残り続けてきたことと
類推して考えるべきなのかも知れない。
そんな気がしてくるのですが・・・。
<写真は、宮城県名取市閖上地区の震災前後の航空写真比較>

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