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消費することと豊かさ

先般の「北の国から30周年」番組への雑感その2です。
倉本聰さんは、「北の国から」でも
繰り返し、ものを捨てるということへの違和感を
ドラマでも表現し続けています。
幼い純くんと蛍ちゃんが運動靴を買い与えられ、
それまで履いていた「まだ使える」運動靴を
ゴミとして捨てられて、
それを取り戻しにゴミ捨て場を探し回る、というドラマの場面が出てくる。
また、捨てられていた自転車を
黒板五郎さんが修理して磨き上げてこどもに使わせていたら、
前の持ち主がゴミとして捨てたことに口をつぐんで、
「いや、あれはちょっと放置していたのだ」と言って
警察に通報し、警官が回収しに来るという場面も回顧されていた。

資本主義の本質として
「消費すること」への翼賛が繰り返されているのが
現代の社会であることは、明白。
そしてその過程で、ものへの愛着とか、ものを大切にする心というのは
どんどん鈍感になっていく。
いいじゃないですか、便利になっていくじゃないですか、
ということが優先される社会。
そういう社会に対して、違和感を申し立てる視点を繰り返し、
倉本聰という作家は語り続けていると思います。
いわば、消費という、資本主義の基本理念への
その破綻せざるを得ない部分への異議申し立てですね。
その結果として、「本当の豊かさとは」という展開になっていく。
まぁそれもひとつの「予定調和」的な、ちょっと疑問の湧く展開。

一方で、わたしには、もうひとつのテーマが見えてきまして
現代という社会は、貧しい、ということを恥ずかしがる社会であるということ。
黒板五郎が、警官に対して反論するのを
前の奥さんは制止するのだけれど、
その奥さんの心理の底には、もめて欲しくないというのと、
同時に、そうしなければならないほどにわが家は貧しい、
お金がない、ということへの恥の感覚が強く印象させられた次第。
欧米の社会では、
お金がないということに、恥を感じるという文化は本質的に存在するのだろうか。
かれらは、そういう状況に対したら、
それを「階級闘争」として解決するという発想の方が強いのではないか。
最近のイギリス社会の若者の暴動って
いつか見ていた光景が違う表現で出てきた、という気分にもさせられます。
どうもこのあたりの、日本人と欧米価値観の間に
微妙な違いがあるように思われてならない。
この「恥」の感覚って、
いったいどんな容貌を持っている事柄なのか、
もっとよく考えていかなければならない気がします。

<写真は自動車社会直前の青森市での、道路の「雪割り」の様子>

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