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ひとのいのち

きのう、カミさんの叔父が亡くなっての葬儀。
遠方であり、仕事のこともあって、カミさんだけが行きました。
81歳だったということなので、まぁ天寿といえなくもないけれど、
驚いたのは、ついこの間、
1月30日に、義父の月命日があって、元気な顔を見せてくれていて
あれこれ、よもやまの話を元気に交わしていたのです。
声もハリがあったし、話す内容も筋道はしっかりしていた。
まぁ、ときどき黙り込んでしまって
叔母に言わせると、そういう無言が恒常化しているという話。
カミさんと弟の、幼い頃の海での遭難のことを
(っていっても、波にさらわれてちょっと流された程度)
克明に話してくれていたのでした。
無言が出てくると、心がけて話しかけていたりはしたのですが、
それにしても、それから帰ってすぐに入院して
もうすぐに死にそうだとか、
いや、奇跡的に復活しただとか、そういう騒ぎが始まるとは
つゆとも思われないような印象だったのです。
で、ほんの3週間ほどで、帰らぬ人になったのです。

あっけにとられたような気持ちがします。
多くの人を送ってきて、死は身近なものとも感じますが、
それにしても、日常の先に口を開けている、という印象。
こういう死に方というのもあるものなのだと、深く思い至らされますね。
倉本聰さんとのインタビューを行って以来、
死というものを、いろいろに思いめぐらしてきています。
否応なく、どんなひとにも平等に訪れてくる死。
そういうなかに、このような句読点の明確でない、死の形もある。
いま、このときの瞬間の意味合いをよく考えなければなりませんね。
合掌。

<別に叔父はキリスト教徒ではありません。先日見かけた面白い形の教会>

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