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【本能寺後の光秀肉声「我等不慮儀」/細川家文書】


あけましておめでとうございます。
昨年も無事、毎日ブログ投稿が続けられました。ことしも頑張ります。
いまや、ライフワークというか、生き甲斐の領域ですね(笑)。
やはり見ていただいているみなさんがあればこそと感謝申し上げます。

で、新年第1発も、旧年中から仕掛かりの細川氏文書、明智光秀書状解析です。
どうして住宅がメインフィールドのわたしが、というところですが(笑)
家に住むのは日本人であり、その暮らし方を考えるとき、
民族性やその歴史について洞察するのは重要な部分、と考える次第。
まぁ個人的に歴史への興味が尽きないのであります(笑)。
本日はいよいよ信長殺害に及んだ光秀が、その後の政治軍事展望において
もっとも決定的な「基礎因子」と考えていたに違いない、
最側近にして娘婿としての縁者でもある細川氏父子、藤孝・忠興宛書状。
本能寺の変後7日目の日付。
細川氏というのは幕臣の有力家系であり、藤孝は入り婿になった存在だけれど、
その後も家が存続し続けつい最近も細川護熙が総理になった家系。
その長き血の存続を可能にした決断は、この藤孝の判断力に負うところが大。
代々の幕臣ながら、15代将軍・義昭から信長政権に政治転向し、
明智光秀が統合した旧幕臣を中心とする織田家畿内軍組織の中核だった。
言ってみれば織田畿内軍団・明智軍の副将格であった。
光秀にして見れば、織田家での奉公前後で常に行動を共にしてきた間柄であり
その娘を世嗣・忠興に嫁がせてもいる無二の盟友。
その細川藤孝が、本能寺の変に際し「髻を落とし」信長への服喪姿勢を示した。
さすがに幕臣家らしい出処進退の仕方なのだと思う。
政治軍事的にはかなり勇気のいる決断であり、天下への声明効果が高かった。
「おお、細川藤孝父子が髻を落とすべき事態であるのか・・・」
光秀の軍事力の基盤組織の副将が、主将を弾劾したに等しい。

光秀にして見ればまことに不意を突かれたに違いない。
「一旦我等も腹立候へ」と正直に書いている。まさか娘の婚家である
身内の(同然の強い同盟者)副将から絶縁に等しい仕打ちを受けたのだ。
まさに、まさか、という思いだったのだろうと思う。
たしかに信長の殺害という秘事はその決行まで秘中の秘として機密扱いであり
副将にも告げることをしなかったのか。・・・このあたりはどうもあやしい。
細川氏には、その秘望を伝えていた可能性もある。
事前に伝えた上で決起に及んで首尾良く信長を討ち果たしたところ、
その間深く熟慮した上で「髻を落とす」政治行為を細川氏は選択した可能性。
藤孝・忠興父子が同一の政治判断・行為に及んでいるのも計画的・・・。
わたし的にさらに興味を惹かれるのは「我等不慮儀」という光秀の肉声。
一般的理解としては、信長殺害の行為を婉曲に表現したとされる。
この細川氏の解説冊子でも、そのように現代語訳されている。
「不慮」というコトバを国語辞典で調べると〜思いがけないこと。不意。意外。
よくないことについていう。「―の災難に遭う」「―の事故」〜。
この本能寺の変直後7日目の段階でこのようなコトバを使った光秀の心理。
もっとも重要と考えた細川氏への書状において
正確を期して祐筆(書記官)に筆記させたに違いない文書において
このような表現を使っている。「殿、不慮と書くのですか?」「そうだ・・・」。
この時代、不慮というコトバに現代と相当乖離があるとも聞かない。
ある政治的行為を選択した当人が「我等不慮儀」と書けば
その正統性に疑義があると自白したに等しい、
と政局から判断される可能性が高いとは考えなかったのか?
たしかに光秀の信長殺害計画は秘中の秘であり、たまたま大軍団を移動させる
名目として主命での中国出陣があったという絶好のチャンス。
光秀として、千載一遇のチャンスを前のめりで実行したけれど、
政治的正統性確保にまで深謀は及んでいなかった、という自白ではないか。
まさに不慮、深く考えない行動であったと。
あとの文面は繰り言のようだ。いわくもう決戦も近づいているので早く出馬せよ、
望み通りの国をあてがうから頼むという哀願にも近い表現。・・・

この書状を見て細川氏はいよいよ自らの政治選択の正しさを実感したに違いない。
ただ光秀の真意は別にあったのかも知れない。
信長に「俺の目で見ている」とまで思わせるコミュニケーション能力を持つ光秀が
こういう錯誤を簡単に冒すとも思いにくいのですが・・・。

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