図は元総理の細川護熙氏の細川家が公開している美術館、
「永青文庫」の季刊誌の最新号から。
ことしは「麒麟がくる」が放送されたので、明智光秀の素性を探る意味で
盟友にして織田政権下での配下・細川藤孝の細川家が所蔵する資料は
いろいろな意味で注目されていた。
そしてそのことは細川護熙氏の自筆原稿からも窺われ、
NHK側に氏から再三「明智光秀を取り上げるべきだ」と働きかけていたとのこと。
永青文庫では満を持して、細川家に伝わる信長からの書状など、
明智光秀の実像に迫る一級資料の公開が行われる「ハズ」だった。
しかしこれもまた、明智光秀の日本史への意趣返し的報復なのか、
世情を混乱させるコロナ禍が社会を覆い、
永青文庫が企画した「新・明智光秀論〜細川と明智 信長を支えた武将たち」展は
当初の4/25−6/21の予定が中止されざるを得なかった。
それがようやく2020年11月21日(土)~2021年1月31日(日) 開催された。
まことに光秀の怨霊の祟りか、と日本史好きとしては慄くばかり・・・。
この季刊誌自体、発行は4/25となっている。
で、興味深くその内容を吟味させていただいております。
わたし的にはこの情報開示を見て、いわゆる畿内地域の当時の政治社会動向と
織田家がそれを制圧していく過程で明智光秀の果たした役割の生々しさを再認識。
畿内地域こそが「天下」だという当時の社会常識からして、
信長の「天下布武」という政治軍事スローガンと、
その実現のために大車輪の活躍をした明智光秀像が垣間見えた。
細川家収蔵資料から浮かび上がってくるのは、信長がいかに光秀を信頼し
その情報把握能力の高さ、カミソリのような切れ味を信認していかかが伝わる。
考えてみれば織田家政治軍事組織中で、複雑極まりない京都と畿内を
制圧できる戦略戦術を企画立案できるような人材は皆無だった。
戦乱により衰微していたとはいえ、曲がりなりにも「政局」の中心であり
朝廷権力と室町幕府政権もそこに存在する中で、
すべての関係性を整理整頓して、織田家の政治目的を完遂させるには、
相当の状況把握力、政治コントロール能力が不可欠だっただろうことは明らか。
新興の政治軍事勢力であった織田家が、それまでの阿波・三好氏とは違って
本当に天下布武を実現できたことの根拠をよく考える必要がある。
織田家はそのような「道案内」「先導的指導者」として光秀を得たことが、
いかに巨大な利益になっていたことかが、マジマジと実感される。
そしてその明智光秀が信長を殺した後、
なぜ細川藤孝が光秀からの勧誘に応じなかったのか、
その決定的書簡文書も今回の展示会では公開されていた。
明智と細川はなぜたもとを分かったのか、細川氏的には一族の帰趨を決する局面で
なぜそういう決断に至ったのかという消息がうかがえる。
・・・それにしても、最初の会期が中断され、
また今次の開催も時間を同じくしてコロナ禍が猖獗している。
本能寺の変と明智光秀の怨霊・・・闇は深いと驚かされる思いであります。
Posted on 12月 30th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 歴史探訪
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