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【戦国期からの豪農家系 in福島/日本人のいい家⑫-2】




1578年戦国期に若狭(現福井県)から現在の福島市上飯坂に進出してきた家系。
今から442年前ということになりますね。であれば、
モノとしての住宅以上に家系としての歴史が人として優越する領域。
住宅建築は「客観性」の表現であって主体分析の基本はやはり人文系テーマ。
歴史事実としてはこの年には織田家の播磨侵攻があった。
徐々に織田家は畿内を押さえ中国地方に領土を拡張しつつあった。
戦国期が終息に向かい織田政権を母体とする統一国家権力が伸張しつつあった。
明智光秀の丹波攻略は完了し、福井・若狭国も織田家の版図に組み込まれた。
そういう年に若狭からはるばる奥州・福島まで「移住」するというのは、
どう考えても反織田の勢力家が、その圧迫から逃れたという推測が自然か。
京都北方で、丹波・明智か越前・柴田勝家ら織田勢に追い詰められた地侍層、
地域に根を張っていた豪族層が危険を察知し、大移転したのだろうか。
日本海海路を移動したのだろうが、しかしそれにしても
現在距離で見ても570km近い。ものすごい遠距離を引っ越した。
もし歩いての移動ならば、荷駄も同道では1日20km程度。とすれば1ヶ月。
カネも掛かるだろうし道中の危険も想像を絶する。
普通に考えればいまの新潟あたりまで海路を船で行って、そこから磐越道。
会津を抜けて福島県中通りに至るという行程になるけれど
たぶん猪苗代湖経由での日本海海運+河川水運は利用できる。
経緯から想像すると平家の落ち武者、能登の時国家とも重なるイメージ。
日本人社会は「一所懸命」であり農地を確保することが生命線。
ある程度の「地縁」はあったと想像される。当時は会津が地域中心だろうが
そこでは一族を支えるほどの大規模土地を確保できず、
のちの東北道幹線地域とはいえ鄙であったこの地を選んだのか。
遠隔地に移住し広大な農地を入手できるほど経済力はあったと推定できる。
政治軍事亡命で移住した福島で徐々に農地を広げ、開拓などもしたのだろう。
河川流域で水害時期には周辺河川の氾濫に悩まされ、
一度は濁流に対して「堀を切って」水没被害からのがれたとされる。
それが「堀切」の名前に繋がったのだという。
このあたり、農業土木技術で若狭と福島では進歩格差があったと想像できる。
先進的な若狭地域の農業土木技術眼からすれば水害危険地も
堤防技術で十分に美田運営が可能と判断し、有利な条件で土地取得できたか。
そういう消息を、この言い伝え情報から推察できると思う。
・・・北海道開拓に先行すること300年。移住と農業技術の消息も興味深い。

戦国期といっても日本の農地開拓は常時進展し、そういった経済的努力は
ごく一般的に追究されていたことはあきらか。
一昨日紹介した「十間蔵」以外にも、広大な敷地には多数「蔵」が点在する。
在地の武家支配勢力と関係を持ちつつも経済主体で生き延びてきたと思える。
現存する住宅は明治10年代に火災での焼失後の建て替え建築。
それ以前、江戸期から建っていた建築の様子はよくわからない。
しかし明治10年代建築でも現在時点では140年近い古建築。

基本的な建築思想としては前段で見たような「家」の存続が基本であり、
個人主義的な「個室」は見当たらず、格式意識に基づいた間取り構成。
明治期以降この住宅建築から中央政界で活躍する政治家が多数輩出した。
日本人の「奉公」意識の根源には個人主義の要素は少ないのだと思う。
個人主義とは「身を立て名を上げる」立身出世範疇のことで、
床の間仏間など家系存続意識の空間的規範性文化を持ってはいなかった。
たぶん茶室は個人主義の萌芽なのだろうけれど、この家にはない。
空間性としては家系共同体型というのが日本人意識の原風景。
その延長にムラ社会があり、個人主義も「故郷に錦を飾る」というものだった。
幾人かの「衆議院議員」を輩出した住宅だが、あくまで家系意識優先装置。
生活装置としては後背の蔵との関係が面白い。これについてはきのうふれた。
個人主義的住空間というのは、戦後日本で出現した特異な建築なのかも。
そういった特異性に気付き可能性を探究しつつあるのがReplanかなぁ(笑)・・・。

アップを1日間違えました(笑)。
この記事の方が2で、きのう先に3をアップしてしまいました。・・・
長編を書くには注意が必要ですね(ポリポリ)。

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