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【注連縄探訪:石見国一宮「物部神社」】



石見国一宮「物部神社」という案内表示を発見し驚愕して、すぐに参拝した。
島根県大田市で中国山地内陸部。島根県では出雲大社がすぐ思い浮かぶ。
事実わたしも、広島市から出雲に抜けていく道中をクルマで走っていて
ふと、交通案内標識で知ることになった次第です。即決で途中立ち寄り。
島根県というのは古代国制では出雲国と石見国の両方が東西合わさって
島根県を構成しているということだそうです。
北海道人にとってはまことに遠隔地で一般常識レベルでは土地勘はない。
出雲はなんとなくわかるけれど、西隣の石見は銀山くらいの認識。
で、それはいいとして、名前に「物部」と名前が付いていて胸騒ぎなのです。
いかにも古代史ロマンへ胸焦がせるキーワードとして心に響き渡る(笑)。
日本史の隠された秘密が一気に素性を明かすみたいなワクワク感。
出雲への道中で「物部」と名の付く古代由来の神社に出会うとはオドロキ。
一時期、中国地方の「神楽」ブームにはるかな羨望を持ちましたが、
まことに中国地方は、歴史のタイムカプセルだと思い知らされた。

物部氏というのは古代の有力勢力で、神武天皇以来の勢力一族。
この石見国一宮をみてから初めて知ったのですが、豪族・物部氏は
古代の製鉄・武器製造に深く関わった一族であり、そこからヤマト政権での
軍事部門の最大勢力となっていた。朝鮮半島との連携を模索した磐井の乱の
鎮圧でもその中心的な役割を果たしたとされるのですね。
地理的に九州侵攻の足場・本州最西端に位置するので対磐井の戦力主力。
この石見国は銀山で有名でその鉱工業技術からヤマトの軍事物資生産拠点で、
同時にヤマト政権以前の「出雲連合政権」の主勢力に対して
それを監視する役割も、物部氏は担っていたと想定されるようです。
荒神谷の大量の銅剣銅鐸など、金属機器生産で日本史のカギを握る地域。
また日本史のメイン交通路である瀬戸内海に出雲が出て行くとすれば、
この「物部神社」地域を制圧してからでないと出て行くことが出来ない。
中国山地一帯の最重要交通路を押さえる要衝の位置にある。
ヤマト政権の対出雲最前線防衛ラインとして機能してきたことが明らか。

社殿は寄棟の長辺側が左右に全開放されたヨコ巾の長いファサード。
注連縄も、広い開口上部に横長でうねうねと渡されている。
昨日紹介した厳島神社と同様の「ゴボウ」締め。右側がやや上がっている。
社殿正面全景では、奥の本殿が直角に配置されているので、
その屋根上端部の木組みが象徴的デザインとして表情を作っている。
全体として、拝殿・本殿の組み合わせは他ではあまりみないような外観。
その由来に思いをはせつつ、ユニークな建築デザインに感銘を受けていた。
物部氏は、蘇我氏との仏教導入を巡っての争闘で敗退し、
その後一族は全国に散らばっていった様子が歴史に伝わっている。
東北の蝦夷とヤマト政権の戦いでも、寡黙な有力一族としてその陰が常にちらつく。
古代史の大きなナゾがこんなわかりやすいカタチで現存する。
まことにワンダーランド感に打たれておりました。2013年夏の探訪記憶。

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