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【いのちの尊厳・・・無念の叫び】

日課になっている札幌円山自然林散歩途中の「オオウバユリ」チェック。
わたしがチェックしているのはいくつかのポイント箇所ですが、
毎日見続けることで、自然と「愛情」に似た感覚を持つ。
かれらオオウバユリはひとつの「いのち」であり、
そのいのちのいとなみを見続けていると、その必死さが自然、伝わってくる。
もちろん植物であり、動物のように切れば血が流れる、と言う存在ではない。
人類はそういった存在を「栽培」というカタチで自己都合で利用してきた。
コメという主食も自然界に存在したDNAに対して深く、長い年月関与しつづけて
人間に都合がいいように改竄して、主食にまでDNA改造してきた。
人類はそういう存在としての罪業は背負っているとは思う。
しかし、と思うような光景を見てしまった。

写真右側のあきらかな切断断面は、その上にオオウバユリの花芽があった。
左側写真のようなおおきな花芽。
見ると、散歩道に面したいくつかの個体がこのような状況に。
よく「花泥棒は捕まえるな」というコトバがある。
あまりの花の美しさに魅了された心根をおもんばかって、
その過ちを責めることをたしなめるように表現したものでしょう。
誰でも、道を歩けばその足下には無数のいのちがあり、
それを踏みしだき蹂躙して生きなければならないのが宿業なので、
なんとも言えないイヤな気分はこれを飲み込むしかない。
帰り道、北海道開拓神社に参詣していっとき祈る時間をすごす。

きのう、出産して休暇中のスタッフがその子といっしょに来てくれた。
まだ3ヶ月くらいだろうか、はかなげだけれど、
たしかな「重さ」をカラダで感じさせてもらった。
いっとき、いのちのリズムのようなものとゆらぎを共有する時間。
赤ちゃんって、神さまがこの世にカタチをもって
降り立ったようなものだと思わされる。
いのちには確かなパワーがある。
なんとなく未来はある、それは明るいに違いないと信じたくなる。
先日北海道開拓期に、伊達藩から移住してきた主従一行の苦難の道行きで
数人の赤ちゃんが生まれて、みんなが希望を持ったという消息を知った。
いのちは偉大だと深く思わされる。・・・

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