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おいしいと思える外観

飲食店の外観って、
それだけの情報で、そこで提供される食べ物が
おいしいか、おいしくないか、
即座の判断を求められる最たるものですね。
建築というものの意味が、
そのひとの経験値に組み込まれて、
総合的な判断として結果するように認識の仕組みが出来上がっている。
そば屋は、大体のパターンが存在し、
そういう了解の元で、印象のなかでの比較検討がある。
それは、定型的なパターンを踏む方向で大部分は向かうけれど、
一方で、革新的に違うパターンを創造しようとするケースもある。
こういう部分は、亭主の感覚の部分なので
そういう味を巡っての対話が
店ののれんをくぐる前に勝負が行われているのですね。
で、ある程度、納得してから客は店に入ってくる。
そこからが、雰囲気とか、器とか、
さまざまな勝負も続く・・・・。
まぁ、そういう全体を楽しんでもいるわけですね。

これって、一般の人と建築というものの関係性で
いちばん重要な意味を持っているかも知れません。
なにしろ、ことは、食べることに直接関係する本然的部分。
その時点での直接的しあわせに直結している。
そのような経験値は、外食の習慣が一般的になってくると
必然的に増えてくるものでしょうね。

一般的に、そういう経験値と比較して
「いごこちのいい家」っていうものの体験経験値は
一般の人には、どうしても不足するのは当然なのか?
自分が住むべき住宅については、
その選択の有り様を考えたら、
この飲食店舗を選択するほどの徹底した感覚の動員はないように思える。
いや、そうではないかも知れない。
たとえ、定型的なマンションを選択するときでも
その立地性に対しての鋭敏な選択はどん欲に追求されているものかも知れない。
そういう感覚動員はあり得るものかも知れない。
一般的に「注文住宅」っていうものの本質は
このような「どう暮らしたいのか」というイメージの世界。
納得できる暮らし方のための背景装置の必要十分条件検索は
そのひとによって違いはあるけれど、
いわば選択力、想像力の部分で、「施主」としての力というものはある。
建築的言語での知見はなくとも、
それを感受する力量、それを使いこなせる力量のようなものは存在する。
たぶん、わたしたちのように
年間で200も300も注文住宅を見続けていると、
そういった施主さんの力が見えてくるケースが多い。

そういう意味では、
まだ注文住宅を建てていない人は、
外食店舗への感受性を磨くことが、
いい家、というもの、雰囲気というものへの感受性を鍛えていく
格好の手段であるのかも知れませんね。
みなさん、いかがお考えでしょうか?

北のくらしデザインセンター
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