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【開拓の明治を生きた個人の生き様・万華鏡】

ブログの連載「北海道住宅始原の旅」シリーズで
高断熱高気密という住宅技術に至った歴史経緯を掘り起こしている。
一方で逆に住宅技術が歴史事象にどんな働きかけをしてきたのかと、
「行きつ戻りつ」することが不思議に新鮮です。
北海道が主要舞台となってこういう住宅革新は生まれてきた。

しかしやはり、どんな時代でも人間の中身自体はそう変わりはない。
いろいろな局面で懸命に生きた結果としての個人の事跡は印象深い。
この地の先住の人たち、たとえば琴似又一という人物を掘り起こして
取材したように感じています。先住の人たちと日本との関係は
部族社会に留まっていた社会と、近代国家にまで飛躍しようとした
明治国家社会との関係として、深く考えさせられる。
むかし左翼運動に傾倒していた時期「原始共産制」みたいな概念を
理想として夢想していたけれど、なぜそういう社会が歴史的に
発展しなかったかについて、イメージが明確化してきた。
社会の富の基本が「私有」と「共有」ということの違いではないかと。
私有は一所懸命であり「家」経済単位の進歩発展を担保するけれど、
部族社会の「共有」は富の総体の扶植という志向が弱くなる。
結果として社会「発展」という目標を持ちにくいのだと。
強い私有概念が貫徹する封建も経験しさらに近代化を志向した社会は
個々の私有欲求が社会発展の基本的エネルギーになり、
その上で「公平性」が社会制度で担保されることで総和として進歩発展する。
これが理の当然な近代国家の方向性になって今日に至っている。
明治の日本はその公理にしたがって
欧米列強に伍して立ち上がったはじめての有色人種国家だった。
そういう国家意志と出会って、先住民族である琴似又一さんは
自分自身のアイデンティティについて深く考え迷ったに違いない。
開明的な官吏たちはかれに東京留学の機会まで提供して
先住社会コミュニティ発展への気付きを扶助した事実がある。
官吏たちはともに近代国家日本を作っていこうと諭したのだと思う。
明治国家自体も、その成立に際し官軍・賊軍という緊張関係も経験し、
北海道開拓では敗者側に復元のチャンスを大いに与えてもいる。
琴似又一は幕末期の開明的な幕吏に仕え学ぶことで社会発展に目覚め、
一翼を担いたいと意思したと窺える。自らの出自コミュニティに戻り
やがて首長になったけれど、しかし部族社会ではそういう開明さが
社会進化に結実することはなく、伝統的な生活様式維持の枠内に留まり
明治国家の開拓事業の伸展「進歩」との親和協調は難しかった。
国家がないまま真空的なユートピア部族社会でこの地があり続けるなど
その後の歴史局面で考えて不可能だったに違いない。
厳しい国際情勢の中、日本が北海道島を開拓しなければ
軍事国家ロシアによって支配され、隷属させられたことは疑いがない。
江戸幕府以来、日本国家が特別に無慈悲で侵略的だったとも思えない。
いやむしろ、明治7年に開拓使大判官になった松本十郎のように
あるいは幕末期に「場所請負」制度から解放したイシカリ改革のように
先住の人々に親和的な姿勢の官吏のほうが多かったかも知れない。
ことは「社会進化」の問題に属することなのだと思う。

こういった個々人の生き様、その有為転変が
さまざまに去来してくる。まことに「歴史に学ばされる」思いが深い。
<写真は竪穴住居を掘るスコップ状木製器具再現品>

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