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【北海道観光初源 明治4年日本初の公園「偕楽園」】


北海道住宅始原への旅。明治3年から本格的にはじめられた札幌本府建設。
そのごく初期、明治4年に日本初の公園「偕楽園」は創始された。
日本にはさらに古い由来を持つ公園も多くあるが、それは旧来の名勝名跡を
公園と改称したもので、無から造成した都市公園としては偕楽園が日本最古。
明治4年段階の開拓判官は岩村通俊で明治5年には薄野遊郭も建設させている。
財政の厳しい状況の中、いきなり公園や遊郭という施設に公共投資している。
考えてみるとかなり奇観とも言えなくはない。
普通は殖産興業に投資が向かい余暇対象には向かわないのではないか。
薄野遊郭はまだしも大量動員された職方たちへの娯楽提供の側面があり
ある種、治安維持的な施策でもあっただろうから、
清濁併せ飲む的な施政として理解出来なくもない。しかし
公園の創始、それも「無から造成した都市公園」には意図を感じる。
多分に江戸期の都市造成での各大名敷地での「庭園」造成も思わせる。
名付けで水戸と同名の「偕楽園」としたことにヒントはあるのかも知れない。
判官の岩村通俊は後に北海道庁初代長官になって北海道に復帰し
「自今移住ハ貧民ヲ植エズシテ富民ヲ植エン」と金持ち優遇を打ち出すが、
かれの施策の核心にこの考えは当初からあったに違いない。
これらを北海道「観光」への投資と考えれば、筋は通っているように思われる。

そうした研究も実際に行われてきているようだ。大西律子・渡邉貴介著で
「明治以降昭和戦前までの北海道における観光的取組の展開過程に関する研究」
というものが日本観光研究学会機関紙に掲載されている。以下序文抜粋。
〜明治以降の北海道史が日本他地域とは異なる出発点と歩みであったことは、
既に良く認識され北海道発達史に関する諸研究も少なくない。
しかし残念ながら観光の分野については北海道がどのような歩みを辿り
どのような特徴が見出せるかを総括的に俯瞰した研究は皆無である。
近年北海道では従来枠組にとらわれない新たな観光のあり方の模索と
論議が盛んだがこれに示唆を与える歴史的観点のアプローチが不可欠。〜

たしかに今日北海道の主要産業として「観光」は欠かせない。
で、この「偕楽園」などへの投資について興味がより一層強くなった。
明治初年、それも開拓使本庁舎もまだ建てられていない時期に
偕楽園の造作には着手されているのだ。都市計画で「公園」的な施設の
有用性に気付いていた。札幌市街形成で「大通り」が計画配置されたことも象徴的。
前記研究でも「視察目的に来道する政府要人や皇室関係者らの接遇用に、
偕楽園、薄野遊郭、大通大花壇、豊平館および清華亭等が相次いで整備され、
観光基盤が蓄積され始める。」との記述。さらに雇い外国人たちの建言で
札幌円山など原始自然林保護が実現したことも大きい。
原始の残る「自然」そのものが究極的な価値を持つという建言は貴重だった。
また開拓使の札幌の都市建築それ自体、まさに「洋造」を意図して
カラフルにペンキ塗り意匠まで施して日本離れして度肝を抜くものだった。
そうした状況は北海道紹介刊行物『北海道移住案内』で道外に広く伝播された。
日本社会に根強く存在する「北への憧れ」心理の形成に大きな影響を与えた。
移住はすぐに考えないまでもこうした「宣伝」は観光に役立ったと思える。
さらに殖民を進めるためにも交通の整備を積極的に図った。
明治5年函館と札幌を結ぶ「札幌本道」の完成、明治8年東京函館、東京小樽の
定期船航路の就航、明治12年函館小樽定期船航路の就航などで
「観光」での北海道訪問が身近なものになっていった。
日本は江戸期以来「観光ブーム」で、その対象を求めてもいたのだろうか。

このような歴史的意義を持っていた偕楽園だけれど、
残念だが現在ではその残滓をわずかに清華亭周辺に残すのみとなっている。
しかしその「観光思想」は札幌植物園や円山自然公園、中島公園など
札幌の大きな資産として残り続けていると言える。 <写真は北大DBより>

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