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【明治13年 小樽手宮ー札幌まで天皇を乗せた鉄道】

写真は北大のデータベースから、札幌屯田兵招魂碑前を通る弁慶号/ 武林盛一。
明治13年と日付があるが不詳とのこと。しかし翌14年には
先般触れた明治天皇の行幸があったので、
それに合わせて開通させたことが明らかだと思われます。
この「屯田兵招魂碑」は、西南戦争に参戦した屯田兵のうち、
門松経文大尉と屯田兵36名を祀る招魂社として札幌に建立された。
開拓使が開設した「偕楽園」(札幌市北区北6条西7丁目)にあったとされる。
ちょうど明治天皇が休息された「清華亭」からほど近い。
この当時には札幌駅は存在せず「停車場」が現駅舎の150m西側にあった。
明治天皇はこのような蒸気機関車に乗車されて偕楽園内という
森の中の停車場に明治14年夏の終わりに降りられたのだろう。

この鉄道は当時拓かれていた銭函から札幌までの道路も利用して
鉄路が開削されたと言われているので、
今に残る鉄道路は島義勇たちが通った道を表してもいるのでしょう。
この天皇行幸からほんの12年前には未開であったこの地に
自らの命で開拓三神を遣わされそこから開拓事業が始まったことに
この年30歳だった天皇はどのような心事であったかと思う。
すでにこの時期には有望な石炭炭田が発見されて、
日本近代化の大きなパワーとなったエネルギーも開発されていた。
それまで沿岸地域の漁業が主要収入源であった北海道経済にとって
この石炭の発見は巨大な可能性を拓くものであったと思います。
そのメドがついたことで石炭輸送を主目的に鉄道の開発もされた。
日本の権力はその後の朝鮮や台湾の経営などを見ても
新開地に非常に手厚い施策を行うけれど、北海道は石炭という
近代国家の成長パワーも発掘することができた。
投資が、具体的なリターンとして有望性が見えてきたと言えるのでしょう。
それまで財政難から札幌での本府建設工事の進捗調整などの苦労も
万事好転させるメドがついた時期だったのだと思います。
この鉄道は東海道線の開通よりも8年も前に開通したことになる。
明治国家の成功にはいくつもの要因があると思いますが、
北海道開発で石炭の発見・産業形成は巨大な貢献をしたことは間違いない。

わが家が札幌に移転して居を構えたのは、
この鉄道にほど近いところ。偕楽園の後継ともいえる北大植物園に隣接し
鉄路までは4-500mと至近距離。北大構内の自然林とあわせて
札幌市中心部というのは、たいへん緑豊かな自然環境が保全されていた。
植物園内には「エゾオオカミ」も檻の中で暮らしていて
月夜には遠くオオカミの叫び声が谺する(笑)。
大自然と明治の開拓の幸運な進展、日本と北海道は良縁だったのでしょう。

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