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【明治5年9月札幌邏卒屯所(警察署)】

本日は「北海道住宅始原への旅」であります。
明治5年には実にさまざまな建築が建てられるラッシュの時期ですが、
建築労働者を中心に本州各地域からの「出稼ぎ」札チョン人口の拡大は
治安維持の重要性にもつながった。
そこで明治5年9月に最重要施設として「札幌邏卒屯所」建設。
写真は背景に藻岩山がこの角度で写っているので、北東の方角から
現在の北1条西5丁目を南西方向に見晴らしたようですね。
山が写っていると急に親近感が増してくる。一気にタイムトラベル(笑)。
邏卒という言い方は、どれくらいの時期までの名前であるのか、
非常に面白い言い方。さすがに「王政復古」の政権である
明治新政権らしい王朝的な言い方と感じられる。
「明治の頃、patrolに対する適切な日本語が存在せず、
<巡邏査察>(じゅんらささつ)を当て嵌めその省略形としたことが
呼称の起こり。欧米のポリスを模範に邏卒をおき取締組を編成,
国家組織として邏卒総長には川路利良が任じられた。
3分の2にあたる2000名が鹿児島県士族であること,
帯刀を禁じ3尺棒を持たせたのが特徴」というようになっている。
巡邏査察を行う「兵卒」ということから、略して「邏卒」。
一方で、「巡査」というコトバも派生してきたとされています。
これ自体も明治の「言語文化大革命」の一端ですね。
公的な呼称としてもその後は「巡査」に置き換わっていった。
それも明治の初年といわれているので、邏卒は一時期の呼称といえる。
どうして邏卒から巡査に置き換え表現したのか、理由はいまは不明ですが、
巡査の方が、活動内容的にはふさわしいとも言えるでしょうね。

建築としては「屯所」という表現ですね。物見櫓のような頂部が特徴。
兵士が詰めている所という意味で新撰組の遺構にもその名がついている。
窓は写真からは「ガラス窓」で上げ下げ窓のように見ることができる。
こうした建てられようは基本的に「洋造」志向といえるけれど、
ところが、玄関には起り破風の和風建築が接ぎ足しされている。
遠藤明久先生の記述によれば、こうした折衷形式は
明治6年以降とはスタイルを異にするとされています。
「帯刀を禁じ3尺棒を持たせた」とありますが、写真を子細に見ると、
和服と洋服の人物が写っているし、どうも和服の方では微妙。
邏卒という名前の「おどろおどろしさ」とはやや違う印象の
モダニズム建築であるように思えます。
開拓使という組織は薩摩藩閥が主流であったとされますが、
この札幌邏卒屯所、最初期の配置人員20人も薩摩藩出身者が
大部分を占めていたのでしょうか?
ちなみに、いまの「札幌中央警察署」建築はこちら。

このタイル貼りでやわらかい曲面を見せた外観が特徴。
奥に高層の現代ビルが建てられていますが、
表層部分には市民に親しまれていた外観が保存融合されています。
日本の警察という組織のある志向性の一面を見せているのかも知れません。
一応わたしは、免許の書き換えで一度訪問させていただいた程度で
過激派思想惑溺・かぶれの思春期・青年期にもその後にも、
こちらにご厄介になったことはまったくございません(キッパリ)。

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