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【北海道&朝鮮 660年前後阿倍比羅夫の出撃】

北海道住宅始原の旅シリーズですが、本日はややスピンアウト。
一昨日は北海道江別古墳群の造営者たちとヤマト朝廷側との対粛慎
(異文化性の強いオホーツク文化人)の同盟関係推定に触れました。
6000年前の「古石狩湾」地形から気候変動、大地変動を経て
安定的地盤地域「江別半島」にこの時期「続縄文」の社会が存在した。
高校後輩の考古の碩学・瀬川拓郎さんの「アイヌの世界」での
「阿倍比羅夫は誰と戦ったか」条を下敷きにしてみた次第。
かれは、石狩低地帯以西の続縄文社会とヤマト政権が
共通の敵対勢力として粛慎を特定し「戦った」事跡を掘り起こしている。
瀬川さんの記述では奥尻島で阿倍比羅夫は大いに粛慎を撃破した。
そして北海道・続縄文とヤマト政権との連携・同盟関係を作り
安定的な「交易」基盤を作るために軍事活動したのだろうと。

阿倍比羅夫はこの時期執政の天智天皇の政治外交的ブレーンであり、
軍事指導者だったことは、直後663年対朝鮮の白村江参陣でもあきらか。
天智の中央政権はこうした対外的進出作戦に積極的だった。
この北方での軍事作戦の「成功」があって、
それがまた白村江軍事進出の「自信根拠」になった可能性も高い。
朝鮮では百済が、北海道の続縄文勢力と同列視できたのだろうか。
天智にして見れば北伐を終え意気揚々帰還の凱旋将軍・阿倍比羅夫が
「この将軍なら朝鮮の戦線でも勝てる」とも思えたのかもしれない。
阿倍比羅夫がどの程度の軍勢規模での「出征」を行ったか?
日本書紀記述では1000人規模の北海道「続縄文」側の参陣記録が書かれ
200艘の軍船を仕立てた東北蝦夷との同盟軍勢に触れている。
この時期の北海道の人口規模を考えれば、地域を揺るがすほどの
大戦争だったことが十分にうかがえる。
このような歴史事実から、日本中央社会での北海道の存在とは
外的安全保障対象地域と認識されていたと思える。
明治開国時に北海道開拓が対ロシアの北方安保国家戦略であったことと、
この阿倍比羅夫の北征記録が重なり、既視感をもって見えてくる。
明治のときにも北海道でのこの国家・軍事戦略が成功し
同時並行で征韓論が盛り上がった事実とが非常に既視感たっぷり。
たしかに地形的に日本のカタチをみれば、北と西が
対外的な興味対象であることは自然でもあるのでしょうか。

ということで、まことに「スピンアウト」版でした(笑)。
明日以降、また住宅ネタに復帰しますのでよろしく。

<写真は韓国の「河回村〜ハフェマウル」遠景>

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