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【明治3(1871)年建設の札幌官舎】

北海道開拓期からの住宅事跡探訪であります。
上のような写真が、記録として北海道大学に保存されている。
今から148年前の住宅外観写真です。
このような開拓初期の様子について多くの写真が残されているのは、
開拓使側の用として写真記録の要請がカメラマンに対してあったのか、
あるいはカメラマンが自費で他日の用を期して撮影したのか、
まずはこういった状況も調査する必要はある。
たぶんカメラという「舶来文化」はまだ希少だったはずなので
日本人の民間でそのような数寄に生きた存在は考えにくい。
開港して海外公館も存在していた箱館からは陸路で1週間程度なので
カメラ機材をもって「北海道開拓・札幌首府建設」の記録を
残そうと考えた、そのような意志が存在したということでしょう。

島義勇一行という最初期の札幌入地者たちは、
「北海道開拓使」の官人たちと、主に測量や土木整備、建築の
雇用された職方たちの一団というような構成だったのでしょう。
前年の新暦11月になってようやく開拓拠点・銭函に入って
そこから創成川周辺を起点にした工事に着手していった。
判官・島義勇は明治3年1月19日(旧暦)に解任され3月にはこの地を離れる。
そこから11月までの期間にこの建物は建てられたとされる。
「使掌」「小主典」というのは判官同様、王政復古の明治期の官人職制。
「小主典」は戸建て住宅が与えられ、それ以下の職制である「使掌」は
長屋建築に住居することになったということでしょう。
当時の真壁木造工法では外壁押し縁〜外壁板のタテ方向押さえ材〜は
基本的に「半間」ごとに建てられているので、
左手の「小主典」邸宅は妻側は4間と見て取れる。
その対比で見ると平入り玄関側壁面は5間程度。
それに奥行き半間の玄関が加えられ、さらに妻側両側に「下屋」が
各半間で張り出されている。
この下屋は室内から出入りできるように考えられるだろうから、
本体部分約20坪、下屋部分4坪の総計28坪面積の平屋とみえる。
手前平側に玄関と並んでもうひとつの「開口部」がみえる。
これは内部の「土間」につながる出入り口と想像できる。
その右手の妻側下屋には「窓」もあるので、
その後の明治7年建築の屯田兵屋と同様に「無双窓」だったと思える。
(雨戸仕様であれば外壁側に戸袋が必須だけれど写真では見られない)
屋根はこけら葺きか、柾葺きのように見られる。
屋根傾斜がゆるやかで一寸勾配程度。
木で屋根を葺いていてクギでしっかり留めているかどうか。
開拓のまったく初めの建築で十分にクギを使えたか、もっと調査が必要。
ですがこのような仕様でこの4年後にも屯田兵屋は建てられているので
屋根積雪荷重にはそこそこ対応できていたということなのでしょう。
写真奥には「使掌」の長屋建築も見えているのですが
建て方はたぶん同様のつくられようだろうと思います。
手前側には「草屋根」と後に岩村判官が名指した「倉庫」がある。
岩村判官も「官舎でもそういうものはあるが・・・」と言っているので、
物資の保管場所として、この程度の小屋がけは必須だったでしょう。
というか、開拓使としての必要備品類がこのように収納されていた?
春からは乾燥気候の札幌では、火の用心は不可欠だったことでしょう。
建築用材は基本的に「現地調達」だったとされるので、
この建物群はたぶんいまも北大植物園に残っているような樹種で
建築構成されたに違いありませんね。
いまは植物園の樹木は伐採御法度なので、復元不可能(笑)。
さらに写真の一番手前には、重厚に薪が積み上げられている。
煮炊き暖房のバイオエネルギーは開拓地では豊富に得られただろう。
また、生活用水は創成川がすぐ近くに流れている。

・・・これ以上は内部に入って「取材」したくなる(笑)。
住宅取材ってやはり生活の実相の「掘り起こし」という要素が強い。
こういう写真資料があると時空間を超えて想像力は膨らんできますね。

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