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【縄文と弥生 復元建築の木組みの相違】


人類が洞窟住居とか、移動狩猟生活でのキャンプ生活から
定住的なライフスタイルを採用し始めたのは、
日本列島での縄文期というのが最古層ではと思っています。
だいたい16,000年前というように言われているようです。
では定住を始めるのにどういう住居に住んでいたかと言えば、
それは当然竪穴住居だったのでしょう。
地面に穴を掘って、その地域の年平均気温程度の室温確保が可能な
地熱利用できる深度まで掘り下げた。
その上で自然環境から得られるもっとも身近な素材として木を切って
屋根材として、あるいは柱材として利用しようと考えた。
そのときに、それらの木を「組み合わせる」技法、
いわゆる「木組み」について、相当研究開発したに違いない。
木を利用する動機としては、舟を作ることが先行したのでしょうが、
その技術はやがて建築に援用されるようになった。
船大工と家大工技術は相互に影響し合いながら人類発展を支えた。

この「木組み」技術について、どのような進化過程があったのか、
かねてから深い興味を持っております。
写真は、三内丸山(左)と吉野ヶ里(右)の
望楼建築とおぼしき建物を比較対照させたものです。
時代的には縄文と弥生の社会の技術の相違、進化ぶりですね。
高さ的にはほぼ同様程度と措定されているようです。
柱の数はどちらも6本となっていますね。
たぶん遺跡に残されていた柱の穴、その大きさと深さ,間隔、数など
情報を統合させて建築として復元したものだろうと思います。
年代的には三内丸山の方は5,000年前というように情報があった。
一方の吉野ヶ里は3世紀ころに最盛期を迎える遺跡ということなので、
いまから1,800年前ころを想定しているようです。
下の写真は両方の建築の「木組み」接合部の拡大写真。
縄文の方はつる性植物と思われるロープが利用され,一部では
斜めに柱に「受け木材」が付けられてそこに横架材が乗っている。
一方、弥生の吉野ヶ里では、
明確に柱に通し穴を貫通させた部位に、横架材が挿入されている。
いわゆる仕口の技術が明瞭にあらわれている。
このあたりは、重要な部分なので復元に当たっては建築史的な検証が
なされたうえで、こうした技術仕様に間違いないとされるのでしょう。
一昨日紹介した今から1,500年前ころの北海道オホーツク遺跡では
つる性植物によるロープ架構が措定されていました。

先述の船大工と家大工の系統分化もあって、
たとえば船大工の世界では、当初の丸木舟からさらに大型化のために
当然、防水を兼ねたしっかりとした「木組み」技術は追求されただろう。
想像としてはそういう技術開発の必然性は舟の方が先行して
やがてその技術が家大工の方に伝播していったのではないか。
それと、そのように精巧に仕口を造作するには鉄の道具革命も
あいまって進行しただろうと思われるのですね。
この木組みの進化物語、深く興味をそそられています。

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