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【仙台平野中央「遠見塚古墳」探訪】


わが社仙台オフィスから東南方向約5kmくらいにこの古墳があります。
1kmくらいには「陸奧国分寺」もあり、遺跡がいろいろにある。
札幌や北海道では感じられない古代からの消息が空気に馴染んでいる。
この古墳は4世紀末の築造とされていますから、
これよりさらに南の名取市にある「雷神山古墳」と並んで、
この地域が比較的に早い段階から開発の進んだ地域ということが知れる。
以下、Wikipediaの「古墳時代」記述抜粋。
〜古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指す。
中でも3世紀半ば過ぎ〜6世紀末まで前方後円墳が北は東北地方南部から
南は九州地方南部まで造り続けられ、前方後円墳の時代と呼ばれる。
西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく
詳細を把握できないため「空白の4世紀」とも呼ばれている。
日本国家の成立を考察すれば、倭国のヤマト王権が拡大し、
王権が強化統一されていった時代と考えられている。〜

下の写真は昭和20年代の古墳の状況。
空撮写真ですが、みごとに古墳全体が耕作地になっています。
古墳の被葬者はこの地域を支配した豪族であることは明白ですが、
1600年も経過すれば、世の中というのはこうなるのでしょうね(笑)。
さすがにその後、ここが古墳であることに気付いて
上の写真のように発掘調査が行われている。
遠景に道路が見えているのは、いまの国道4号線バイパス道路でしょう。
現在はこの周辺は公園になっていて、丘状の古墳に上れる。
「仙台平野のほぼ中央、広瀬川北岸の自然堤防に立地する。
全長110m・後円部直径63m。埋葬施設は2基確認され、両方とも大木を
二つにくり抜いた「割竹型木棺」。古墳の規模に比べて副葬品は少なく,
管玉1点、ガラス小玉4点、竹製黒漆塗り堅櫛17点。」
というのが、発掘調査結果とされています。

この古墳時代は文献資料が乏しく、
5世紀になってようやく、倭の五王が中国史書に登場する。
ヤマト王権がゆるやかに各地の豪族との合従連衡で
国家の基盤を固めようとしていた時期とされる。
上野の豪族、毛野氏などとヤマト王権との関係などをみると、
ヤマト側の「威信材供与」が各地豪族をつなぎ止めていたとされる。
副葬品の少なさは、東北南部は王権から遠く離れていたからなのか。
この仙台平野での水田耕作開始から300年程度は経過している。
こうした地域の開発独裁権力が、この地域一帯を支配して
ゆるやかにヤマト王権との関係を築いていたのでしょう。
より南に位置する雷神山古墳勢力と連合的権力形成と想定される。
日本武尊(ヤマトタケル)は4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの
英雄を統合した架空の人物という説があるけれど、
遠見塚古墳勢力など各地豪族との合従連衡を持ちかけて回っていた?
副葬品の少なさは、ほかにたくさん贈与して品切れした(笑)。
まだ埋葬施設調査がされていない雷神山の方は手厚くなっているかも。
埋葬形式が「前方後円墳」に全国的に統一されていくのには
こうした合従連衡と情報の一円化が進行したことを表現している。
まだまだ詳らかにはなっていない、遠見塚古墳の研究発展を期待したい。

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