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【地域ものづくり道具生産「鍛冶」in会津歴史】

福島県でときどき撮影を依頼しているカメラマン・赤沼博志さんから
写真のような「写真集」の本が送られてきた。
戦国時代末期に会津地方を秀吉政権から受領した蒲生氏郷は
この地を領有・支配するに当たって、同時に自らの出身地・近江から
大量の「職人」たちをこの地に勧誘して、地場産業を興した。
この会津に根付いたとされる製鉄職人としての「鍛冶」について
そのありよう、歴史経緯などを地域に残った資料、実物写真などで
本と言うアナログのカタチで「遺そう」としたのがこの作品です。
戦国武将にとって、鉄の技術というのはまさに中核的な技術だったことは自明。
戦争の度にまさに「命が掛かる」その道具の優劣を考えない人間はいない。
「殿、先の戦では当方の刀損耗率はこれで、相手方はこうでした」
ということを専門に把握する家老職まで当然のように存在しただろう。
織田軍の鉄砲装備での長篠合戦の例を挙げるまでもなく、
このことは戦国武将にとって最高の関心事だった。
いろいろな戦争が起こる度にその帰趨を制した「技術進化」が問われ、
すぐさまに抱えていた技術者の「鍛冶」に最先端技術開発が委託されただろう。
そういうなかでいわばブランドとしての堺の鉄砲とか、備前長船などの
地域製造業が独自進化を競っていたに違いない。

日本史において、製鉄技術はまさに核心的な産業だった。
農業の開墾道具・諸生産必需装置、漁具、林業の基本道具、さらには
戦争のための武器の生産においてまさに決定的な技術だったことは明らか。
弥生の遺跡である吉野ヶ里でも、こういう鍛冶集団痕跡が認められると聞く。
古代史を見ていると、政治的・軍事的事態の裏側で、
この製鉄・鋳造の技術がこの列島でいかに創始されたかがほの見えてくる。
白村江敗戦以降、この列島社会が半島・大陸との間で
比較的に独立的で離隔した関係になって行くことができた背景には、
海を隔てているという地理的関係以上に、
この鉄の技術が列島社会で自力生産させられるようになったことが、
大きく関係していることが深く理解出来ると思う。
そういう「社会進化」の具体的な地域歴史について
ほぼ人間血脈的なサイズで記録が一地方としての単位で残されていて、
現代のわれわれが知ることができるということに深く驚かされます。
北海道にいると、こういった地域間競争の結果としての地域史のようなものに
どうしても感覚が鈍くなるし、またそれ以外の地域でも一般の現代生活では
こうした地域を支えてきた技術についてのニーズはほとんど残っていかない。
しかし、確実にこうした営為が存在し、生き延びてきた事実もある。
そういう根底的な気付きを、この本はもたらしてくれました。

「会津手語り」 写真・文 赤沼博志
歴史春秋社刊:A4変形本文152ページ
TEL 0242-26-6567   定価:2,800円 
http://www.knpgateway.co.jp/knp/rekishun/
Mail rekishun@knpgateway.co.jp

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