本文へジャンプ

【建築が果たす都市への印象責任】


人間は現代に置いては、都市に住む人が多い。
都市というのは人類が獲得してきたさまざまな生きるカタチを表現している。
利便性、情報性、居住性、景観性など
あらゆる人間感覚の根源に関わるように思っています。
いろいろな経緯、ポイントでひとは都市を選択して生きている。

そういった都市を巡り歩いていて
いつも感じることは、建築という物が果たしている役割。
その機能もさることながら、景観としての建築はやはり決定的。
札幌で言えば、札幌駅舎ビル、道庁旧本庁舎赤レンガ、時計台など
その都市らしさのランドマークとしてあり続けていると思う。
そういった存在が各地方都市では、商業施設が担っているケースも多い。
下の写真はある都市の中心街の商業施設なのですが、
看板サインのすぐ下の外壁コンクリート面、あるいはモルタル被覆面が
著しい耐候性劣化を見せている。
サインという存在は「見える」ことを前提としてあるので、
この街並みの中で、ひとの印象に占める割合はけっして低くはない。
そういった建築において、毎日こういう劣化を見続けているというのは
多くの人の印象に対してどうなのだろうかと気になってしまう。
たしかに店舗内部を訪れても活気が感じられず、
いかにも中心市街地の残念感は満載になっている。
売上の減少の結果、再投資修繕のコスト負担に耐えられない現実は理解出来る。
こういう景観は原因ではなく、結果ではあると思うのですが、
とくに寒冷地都市の場合、このような耐候性劣化について見るのは
建築に関わるものとして、なんとも無力感を感じてしまう。
素材選択、仕上げ方法など、こうならない選択があったのではないか、
どうしてもそんな部分に思いが至ってしまうのですね。

一方ですぐ隣接した場所には上の写真のような建築。
こちらは市が管理する施設のようでみごとにスケスケのガラス建築。
下の写真建築のように手入れされずに放置されて
街の印象が暗くなっていく危機感から、街が中心市街地の景観について
行政的に関与している様子が見て取れた。
たしかに「明るさ」という要素は、寒さという要素に優先するとは言われるし、
表層的な部分でこのように街の印象劣化を食い止めたい思いはわかるけれど、
しかしエネルギー無駄遣い感がどうしても強く迫ってくる。
このふたつの建築を見ていて、
建築が果たしている「街の印象」というものの責任意識について
否応なく考えさせられていました。
外観というのはコケ脅かしを伝達する手段ではなく、
その街の暮らしようがサスティナブルであるかどうかを表現するもの。
そんな思いが強くしてきます。

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.