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【京都府・伊根舟屋に見る住む人類史】


きのうの続篇です。この変わった「住宅」群。
ひとつの「街並み」として考えたら非常に優れた「都市景観」を作っています。
北海道にいると、そもそもからして都市計画が欧米的であることに気付きます。
札幌は北海道開拓の基本計画を黒田清隆から委託された
当時のアメリカ農務局長、ホーレス・ケプロンさんとその技師グループが
作っていったことが明瞭にわかります。
積雪寒冷条件の都市環境において、有効な「空地」を広大な道路計画に
反映させている様子を見れば、一目瞭然です。
札幌中心市街の、住宅地の横道ですら8mが基本というスタイルは
ほかの日本の都市ではありえないような贅沢な計画ぶり。
この計画がその後の札幌の都市の発展にとって最重要なキーポイントだった。
そういった地域環境に住んでいる者として、都市計画ということの
意味合いとか、いつも肌に感じている部分があります。
そういうわたしの目線的に、この海の京都と呼ばれる町家的景観は
自然発生的で、生活機能性がそのまま「地域計画」化に至った
すばらしいモデルケースと思われたものです。

日本列島では基本的には漁業という「狩猟採集」が生業として
相当の進化を遂げてきたのだろうと思われます。
石器時代的な陸上動物主体の狩猟採集から、東アジアの太平洋との
フロントに位置するこの列島におよそ3万年前に人類が到達して、
漁業の最たる好適地として多くの人々にとらえられたことは明白。
そしてこの「ウォーターフロント」には、森林が身近に迫ってもいたので、
有用な植物食物も裏山から容易に得られたのでしょう。
さらにいえば、この裏山からはバイオマス資源が過不足なく供給されてきた。
結果として、それまでの人類の普遍的生業「狩猟採集」生活がもっとも進化した。
それがあまりにも「ハマりすぎて」いたので、
次の人類段階である農耕、稲作文化が他地域と比べて遅れたのではないか。
また、こういった縄文的ライフスタイルを基盤に残しながら
徐々に農耕文化を受け入れていったのではないだろうか。
そういえば「和の国」というこの列島社会の国の自称が、
どうもそのような成立のプロセスを暗示させているように思えてなりません。
この伊根の舟屋群をみていて、こういう強い印象に包まれていました。

東アジアの台湾地域から日本列島に移住した一団は、
強い海流を突破する舟の推進力を得るために、
それまでの「葦舟」から、丸木をくり抜いた丸木舟を開発したとされていた。
そのために石器の打撃破断力を高めた「石斧」が開発された。
それによって「船大工」という人類的技術領域が確立したとされます。
後ほど、竹中大工道具館の見学の様子を書く予定ですが
そこでも、いの一番展示として、この「石斧」が扱われていました。
それくらい、初源における木材利用において「舟を作る」用途は巨大だった。
人類の「交通史」として考えても、この丸木舟制作技術は基本中の基本。
そういった意味も、この伊根の舟屋群からは明瞭に伝わってくる。
いまは、すっかり樹脂製の舟に代わっているということでしたが、
以前には「船大工」を生業としていた家がこの集落には数軒存在していたそうです。
こういう舟のための建て家が「舟屋」と言われるものですが、
通常の居住空間は、それと一対のカタチで存在する建物群。
いまはその間が生活道路となっていますが、
たぶん、このような道の成立には各戸に共通していた「中庭」用地が
その用途にあてられたに違いないということでした。
そのような機能分化、生業のフロントと生活の奥空間というありようも、
京町家的な計画性を感じさせてくれています。

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