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【平泉藤原氏の建築・くらしの手掘り】



いまから1200年前くらいの平泉の発掘調査、進んできていますね。
平安末期の時代。引き続く鎌倉時代に向かって
律令国家的な支配構造が崩壊していって、
武家階層が実権を握っていくプロセスが各地で分権的に進展した。
奥州藤原氏というのは、血統的には日本中央の支配権力構造の中で
中核的位置を占めていた藤原氏との同族関係をテコにして
奥州の政治、経済。軍事的独立性を確立させていた。
とくに経済面では全国で源平騒乱というカタチで
勃興しつつある軍事需要に対して、最大の軍事物資としてウマを生産し、
鉱物資源としては、旺盛な平氏政権による対中貿易の拡大の決済手段として
この奥州産の金が貴重な存在となっていったのでしょう。
これらのすべてにおいて奥州藤原氏は地方独立政権であり、
その後の鎌倉幕府という政権が
もっとも「ライバル視」した政権だったことは疑いない。
そうでなければ、頼朝自身が遠征して津波のような大軍を動員した
根拠が見えなくなると思われます。

ただやはり、関東と比較して人口集積自体は遅れていた。
関東がどんどんと新田開発されていって「家人」という律令制外の
「私有民」人口が拡大していったのに対して、
経済的には農業と言うよりも、ウマとか金とかの非農業的生産物が
その経済基盤であって、多くの人口を養う産業構造ではなかった。
そういう私有民の親方としての「武士」階層の
旺盛な土地私有欲望を最高に喚起する政治スローガンを掲げた
頼朝政権の優位性によって平泉は灰燼に帰した。
多くの記録でその首都、平泉は焼失したことが示されています。
現代、世界遺産登録を契機にして、旺盛に発掘調査され、
さまざまな状況があきらかにされてきている。
都市・平泉での建築やくらしの状況が可視化されてきています。

図とイラスト、写真は平泉の柳の御所発掘展示より。
建物の壁の下地木舞などが焼失現場から発掘されてきている。
こういった建築を見ればこの居館は間違いなく日本中央の文化を
そのまま受容した文化だったことはあきらかですね。
藤原という名前を自らの意志で名乗った一族として
そういったアイデンティティを、東北地域の人々にはアナウンスしたのでしょう。
食文化もまた京都風の、ニッポン的食文化ですが、
これらの食器などを見ると、後の世のアイヌとの交易の場での
「供応」が日常的にされていたように思われる。
この時代、北からの交易物、とくにアイヌの生活域からもたらされる
アザラシの皮革とか、タカの羽根のような威信材が
この場所で交易されていたように思われます。
平氏政権の中国貿易と、この平泉政権の軍事物資、希少交易物が
この時代の人々の関心を独占していたのでしょうね。

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