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古代「毛野国」

関東というと、現代では東京を中心とする地域が
中心的な地域というように考えますが、
家康がこの東京地域、というか、
武蔵の国の海浜地帯に首府を開こうと考える以前には、
いわゆる「関八州」という地域はどうにも中心の定まらない
いくつかの大きな河川が地域を分ける
広大無辺というような地域だったような気がします。
頼朝は周囲を山に囲まれた天然の要害、鎌倉を幕府と考えたし、
室町期の関東公方というのは一定の居所の定まらない存在。
鎌倉が主だったとはいえ、古河にもあったも言われる。
その後、戦国期には小田原という
およそ、関東と言うよりも東海地域の入り口のような防御優先の地域に
後北条氏は首府を置いていた。
で、それより以前の平安期から前の時代、
もっと以前のヤマト朝廷成立前後の時代には
関東でもっとも有力だった地域は、上野・下野というように
2つの「国」に分けられた「毛野国」が中心的な地域だったのですね。
現在の県の仕分けで言えば、群馬県と栃木県という地域。

先日の取材の時には、
5世紀初頭に榛名山の大噴火での火砕流によって
火山灰に埋もれてしまった古代の遺構を発掘した博物館を見てきました。
「かみつけの里博物館」といいます。
「毛野国」という存在は、ヤマト朝廷成立期にも
国造制の有力な勢力の代表選手のように語られる存在だったのです。
古代においては、大王位は有力豪族たちの連合体盟主的な存在であって
その有力豪族の中でも、「毛野国」王族は西の九州北部豪族とも
並び立つような存在だったと推定されます。
大変面白い考古的発見であるのですが、
残念ながら、写真を撮ってはいけないと言うこと。
このあたり、施設によって対応が違うのはどういうことなのでしょうか。
東京国立博物館では、常設展示については基本的に撮影はフリーですし、
それらは民族の基本資産なので
その知的所有権はだれもが共通に使用することができる。
また、日本以外の国では、知的所有権が切れた100年超の
美術作品なども含めて、写真撮影使用はフリーになっている。
まぁ、要するに人類共有の財産なのだ、とされているのですが、
「管理する」という名目で、勝手に使用してはいけない
っていうような法的根拠の曖昧な「規則」を来館者に押しつけていますね。
そもそも税金を使って調査した記録物について
それを国民が自由に使えないというのは、明らかにおかしい。

・・・とまぁ、まったく脱線してしまいますが、
ものすごく面白い民族的発見展示ではあると思います。
多くの人に、この地域の歴史的位置を大いに再発見して欲しいと思っています。
<ということで写真は、足利学校環濠です>

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