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住まいと祈りの空間

最近感じていることなんですが、
現代の住宅と、昔の住宅のいちばん大きな違いは
「祈りの空間」が装置されているかいないか、ではないかと。
現代建てられている住宅では、
いろいろ取材に行きますが、極度に採光が重視され、
内省的に、内面に向き合うような空間っていうものが
ほとんど見ることができない気がします。
一方で、歴史的住宅で「祈りの空間」を持っていない住宅は
ほとんど皆無といって良く、
必ず仏間とか、神棚とか、家の中のいい場所にあった。

なぜこういう風になってきたのか、
たぶん考えられるのは、戦前まで存続してきた「家」制度が崩壊したこと。
戦前までは、戸籍でも「家長」という概念があって、
家の存続ということが、個人というものを超えていた。
住宅を建てるということは、抜けがたく
「家の存続」という観念とつながっていた。
昔の武士が、自分の死の恐怖を超えていくのには
家の存続という、引き替えの価値がものすごく高かったからなのでしょう。
戦場で死線を越えていくときに、それを見取って確認してくれるのが
武将であり、家の存続の保証者だったのだと思います。
そのような多くの死があって、家が存続してきた。
そのことへの敬意を確認することが、家の中の「祈りの空間」だった。
まぁ、武士に限らず、そういう観念が大きかったのでしょう。

現代建てられている住宅って、
基本的に、個人主義に基づいて建てられている気がする。
家中心ではなく、建てる個人中心ということ。
長期優良住宅、という概念が語られ始めてから、
どうもこのことが大きく引っかかってきてならない。
長期にわたって住み継がれていく住宅というものは
おのずと、こういう意識についての明確な部分が必要なのではないか。
その家系が存続していくことについての祈りの空間。
どうもこういう論議がなく、
ひたすらに建築技術的なことだけに論議がいっている。
祈りの空間性を持たない住宅が、永く住み継がれていくのだろうか?
このような論議は、不毛なのだろうか?

こういうことは、建築の問題以前に社会の問題でもあるので、
建築的部分だけでは論議しきれない問題ではあるでしょう。
現代ではほとんど、家で人間が死ぬことはないわけで、
ひとの生き死にと住宅の関係が
薄まってきているということを表しているのかも知れない。
いまや「畳の上で死にたい」という概念は死語なのかも知れない。
まぁなかなか論議を起こしにくいことなのですが、
すごく気になっています。
歳を取ってきた、ということなのでしょうか・・・。

北のくらしデザインセンター
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