本文へジャンプ

高田屋嘉兵衛さんと日ロ緊張緩和外交

2391

なんか愛嬌を感じさせる肖像画に描かれた高田屋嘉兵衛さん。
司馬遼太郎の「菜の花の沖」に素描が描かれた北方交易の成功者です。
1796年28歳の時に、それまで船頭として業界経験を積んだ後、
独立起業して資金を集め、独自に北前船を仕立てて航海を成功させ
事業家としてスタートを切った。以来、順調に事業を拡大させていた。
かれが活躍していた時代は、まさに日ロ関係の緊張時期と符合する。

きのうまで紹介した津軽藩の斜里での越冬大量死は1807年。
この前後には、たくさんのロシア船による北海道周辺での
騒擾事件が頻発しています。
まさに日本の安全保障がきびしく脅かされる事態が起こっていた。
こういった緊張の時期は同時に幕府による蝦夷地直轄時期でもあり
伊能忠敬や間宮林蔵などの活躍時期でもあった。
近代的測量術で正確な地図を残し日本史に名を残す伊能忠敬さんは、
自分一代で養子に入った家の経済を繁栄させてから
それを50歳になってから引退し、そこから測量術を学び
さらに自費で北海道の測量を行ったのだそうです。
そのようにまでかれを突き動かしたものとは、国の危機を
ただしく受け止めて、いまなにが必要かと考え
ロシアとの緊張が高まっていた国土の北辺、蝦夷地の正確な地図を
早急に作成しなければという、民族的使命感だったのでしょう。
多くの市井の日本人が、国の安全保障のために
自分の意志で立ち上がっていた時代だったのだと思う。
日本にとって北海道という地域は、単なる一地方ではなく
なにか、近代国家樹立のための象徴性を持った地域だったのだと思う。
そうした先人の思いは、深く受け止めていかなければならない。

ちょっと横道に逸れたけれど、
こういった日本国家の北辺、領土未確定な地域で、
日本とロシアの間で強い緊張状態がある中で、
1812年、高田屋嘉兵衛さんは、国後島沖でロシアに拿捕連行される。
司馬遼太郎さんの小説ではかれはその時、
自分一個で日ロ外交を成功させたいと考えて行動したとされている。
度重なる日ロの摩擦の結果、松前で獄に入っていたロシア軍人、
ゴローニンの釈放交渉を、自ら拿捕されたことを奇貨として
自分で外交交渉まで一民間人ではあるけれど、意志したと。
確かにかれは幕府の御用も受けている立場もあるので、
まったくの門外漢とはいいきれないけれど、
事実としては、この交渉が成功したことで、日ロ関係には進展が見られ、
緊張の緩和がもたらされた。
こうした日本人のふつうの安全保障感覚が大いに機能して、
今日のこの国土領域の状況が生成されてきていることを
わたしたちは、しっかりと認識しておくべきではないのかと思います。
いまの時代の、「憲法9条」で平和が維持できるという考えと似たように
江戸の時代も、自ら鎖国し、外国とは交渉しない、
国内平和主義でやり過ごしていきたいという事なかれ主義が
主流だったのと思う。しかし、現実はそうは甘いわけはない。
このような多くの民間人も、危機を正しく認識して行動していた
そういう歴史の上に、いまの平和もあるのだと思う次第です。

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.