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ヒグマに襲われ続けた寺・様似等澍院

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北海道静内の「二十間道路」観桜のあと、
足を伸ばして、襟裳岬まで遠出してきました。
途中にあるのが、様似の等澍院〜とうじゅいん〜であります。
文化元年(1804年)、江戸幕府の蝦夷地統治および
アイヌ教化政策の一環として建立された
「蝦夷三官寺」の1つとして日高国様似郡に創建される。
当時仏教を信仰していなかったアイヌの居住地域に立てられたために
檀家もおらず、幕府から年間100俵の禄米などを
支給されることで寺を維持してきた。
ところが、明治維新によって保護を失うと急速に衰退、
明治18年(1885年)に廃寺に追い込まれる。
その後、明治32年(1899年)になって再興され、
以後国道建設などで場所を移転をしつつ、今日に至っている。
ということなのですが、
わたしも初めて訪れた次第であります。
歴史の書物で、ヒグマに寺が繰り返し襲われている様子の
絵双紙などが紹介されていたのを見ていた記憶があります。
うかがったところ、なんと住職さんにご案内していただけました。
写真で見る外観の通り、ごく最近建て替えたのだそうです。
歴史的な「三官寺」とはいっても、宗教施設というのは
その後は自立的に運営していかなければならない。
天台宗という、歴史好きのわたしくらいしか宗派名も知られていない寺院の
経営、運営はさぞかしご苦労の多いことと思います。
くだんのクマが繰り返し襲ってきたというのは本当で
クマたちは、大きな法事などで香がたくさん焚かれていると
「お、きょうはたくさん食い物があるな」とばかりに
めがけて襲撃してきていたのだそうです。
そういうこともあって、当初の山の上の方の立地をやめて
浜に近い場所に移転した。しかしそこも、国道の開通のために
敷地を移転せざるを得なくなって、
いまの国道から100mほどの高台に移ったと言うこと。

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なんですが、襟裳半島特有の強烈な浜風で、建物の劣化が激しく
建築としては、繰り返し再建されてきたようです。
200年前の建築の面影は、護摩法要を行う護摩堂の柱梁程度しか残っていない。
本尊と向かって右側の弁財天像がかろうじて創建時のものだそうです。
「人口減少で、いま建て替えなければ、二度と再建できない」
という思いから、数年前に建て替え新築したのだそうです。
「天台宗、といっても檀家さんもほとんど名前も知らない(笑)」ということで、
比較的にポピュラーな浄土真宗や真言宗などとは親近感も違うそうです。
宗教も、結局はビジネスの要素が大きいのだと思いますね。

ま、旅の合間に思わぬ歴史のお勉強にもなって
たっぷりとお話しもうかがえて、ありがたい体験でした。
ということで、護摩法要への祈願お札を納めさせていただきました。
ありがたく、合掌。

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