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中尊寺落慶供養願文

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古来、タイトルのように伝えられている上奏文が残されています。
大きな寺院を開くときに、朝廷に対して勅許を得るために送った正式文書。
この文書の主体は奥州藤原氏初代・清衡か、2代基衡か、
という解釈論争があるそうですが、書かれている内容から清衡とみたい。
・・・(奥州の地では)官軍の兵に限らず、エミシの兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。・・・命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっておりますが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もな く命を奪われしものたちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります。 ・・・縁があって、私は東北のエミシの酋長に連なる家に生まれましたが、幸いにも 白河法皇が統治される戦のない世に生れ逢い、このように長生きをして平和の時代の恩恵に浴して参りました。そして我がエミシの里では争い事も少なく、捕虜 を住まわせた土地や、戦場だった所も、よく治まっております。さてこの時代にあって、私は、分不相応にも、祖先の残した事業を引き継ぐこととなり、誤っ て、エミシの酋長の座に座ることになりました。今や出羽や陸奥の民の心というものは、風に草がなびくように従順でございます。粛愼(しゅくしん)やユウ婁 (ゆうろう)のような海外の蛮族もまた、太陽に向うひまわりのようによく懐いております。
<中尊寺落慶供養願文より、現代語訳・佐藤弘弥氏:抜粋>
上奏文であるという形式を超えて
肉声が聞こえてくるような証言に近い印象が迫ってきます。
この文書からはいろいろな事柄が見えてきますが、
国家にとって、北辺の意味合いというものも見えてくる。
文末に、「粛愼(しゅくしん)やユウ婁 (ゆうろう)」という北東アジア、
たぶんアムール川流域から北海道などにも居を広げていた多くの民族の名前が出てくる。
日本のヤマト朝廷国家は、伝統的外務省である太宰府が九州に置かれたように
中国や朝鮮との関係を最優先に考えた政権であり、
北のルートからの交渉は正規の外交と見なしていない。
というか、そうした民族との交渉に積極性をもつことはなかった。
そうでありながら、交易品には強い興味を示している。
奥州藤原氏が強い勢力を築いていたのは、
奥六郡地域の農業生産性の高さとともに、
日本国家が正規ルートでの外交を放棄していた北方民族との交易利益が
ほぼかれらに独占されていた事実が大きいのだと思われます。
青森県西岸の「十三湊」では多くの北方民族の貿易船が出入りしていたに相違ない。
結局、朝廷が蝦夷の地で戦争に勝利しながら、
支配することができず、頼朝以前までは蝦夷側に自治支配させていたのは、
軍事的勝利は得られても、たとえば源氏の勢力では、
そのような交易ルート確保ができないという事実が大きかったのではないか。
また、逆に言えば、頼朝による奥羽軍事制圧以降、
このような北方世界との交易ルートも大きく細ったのではないか。
頼朝は確かに藤原氏を根こそぎ滅ぼしたけれど、
その結果、経済的にはこの地域の潜在力を弱めてしまったのではないか。
北海道に暮らすものとして、
なぜ、北辺のことを日本史はある時期から忘却するのか、
見えないところがあるのですが、
どうも、このあたりが一番キモになっている気がするのです。
長くなってきました、このテーマ、清衡の肉声部分ということについてはあしたに。
<写真は冬の金堂>
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