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英語くらい話せたら・・・

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金曜日には、ドイツからパッシブハウスの提唱者・ファイスト教授が来日されて
記念のシンポジウムが開かれていました。
語られている内容は、同時通訳もあり、
おおむねはわかりやすく理解出来た。
というか、ほとんどが建築的に既知の事柄だったので、
先生の英語表現と、こちらの建築的知識を重ね合わせて理解しやすかった。
ただ、それを表現するとなると、言葉の壁に行き当たる。
せっかく先生が来られているのだから、積極的に質問とかしたいけれど
なにせ、筋道の通った会話には躊躇してしまう。
・・・って、先生も母国語ではないのですよね。
まぁドイツ語と英語って、
津軽弁と鹿児島弁くらいの違いかも知れないけれど・・・。

英語って、そのなかにいて過ごしていると
単語さえ覚えていけば、なんとかなると思える言葉。
ただ、日本の英語教育では、全員を英語学者にすることを目的にしているのか
やたら文法の解析のようなことが重視されている。
必死に「学問」にしたいと英語教育の大先生たちは考えているように感じる。
「専門家」を養成しようという方向に偏りすぎている。
普通の日本人は英語学者になりたいというのはまずいないだろうから、
結果として残るのは本来の目的からはかけ離れた現実。
そう、しゃべれない英語に苦しめられたというムダな刷り込み。
たぶん英語を余り簡単に身につけられるように教育したら
日本の国家アイデンティティの喪失に繋がる可能性があるから
国家戦略として、なるべく英語を
しゃべれないようにしようとしているのではないか(笑)。
そう思い過ごしてしまうほど日本人は英語(会話)が苦手ですね。
わたしはその典型であります。って、威張れない(笑)。
教育課程で都合6年間以上(中学・高校)も英語学習しているのに
驚くほど日本人が国際化していないのには、なにかの理由があるのでしょう。
会話重視にしたら、まずは単語を沢山覚えることが第1で
そのための方法はたぶん、全然違うアプローチだと思う。
現状のアプローチにはまったく意味がない、とまでは言わないけれど
日本国家創成期のころの漢字受容に比較して
英語受容のおそろしいほどのペースの遅さには呆れる。
古代の文章博士たちの知恵の高さに比べて、
近現代の明治以降の教育システムのダメさには、ため息が出る。

先日もタイから来た建築家のみなさんに
いろいろ聞いてみたいことがあったけれど、
こっちに英語コンプレックスがあって叶えられなかった。
国際化時代にこれでは、と考え込んでしまう。
どうしたらいいのか、いつも悩みは尽きない問題であります。

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